俺も禿げたいブログ

孫正義氏の名言に触発された、将来禿げることが約束されたサラリーマンの日々の叫び

参照の再帰的影響(リフレクション)は映画や芸術だけにとどまらない

まとめ

  • 映画やアートなど現実に対する参照の作品は、ただ鑑賞されるだけでなく、作品によっては同時に再帰的に強い実行動を伴う影響を与える
  • 近代~現代にかけての思想とセットになった、現代社会に対する問いかけの参照性を持ちつつ、その再帰的影響を意図した経済的活動ができると面白い

昔、現実の演劇性と擬制について書いたことがある(違うブログで、リンクがなくなってしまっていたのでここに書けないが)。演劇は、演者と観客双方が、演技や設定を「そうであるとみなす」ことを前提に進んでいくが、現実においても法律の擬制などのように、「そうみなす=擬制」ことによって現実が進行していく要素がある、という内容である。

映画や演劇の重要な機能として、前提となるみなしの領域と輪郭をぼかし、フレームを敢えてシフトすることで、捉え方や現実的課題に疑問を投げかけ、鑑賞者に問を与える、というものがある。通常、鑑賞者は、その映画をあくまで「現実を参照した作品」としてメタ認知した上で鑑賞体験を思考する。しかし、下記『バットマンの死』では、そういったメタ性の枠を超え、鑑賞者がより強い影響を受けて行動する例を挙げて、より能動的な影響を指摘している。もちろん理屈として、マーケ要素を強めれば、そう作ることは全然可能である。 

私は、この問いが問いとして終われるのか、その先に少なくともなにがしかのリーディングがあるのかによって芸術と商業的要素とのグラデーションがあるのではないかと思っているが、逆に言うと、そのバランスを調整することによってビジネスとして成り立つのだったら非常に面白いのではないかと思っている。

芸術が純粋に問いを投げかけることで終われるのに対し、ビジネスは購買活動を促す以上、何らかの答え、少なくとも方向性の提示は余儀なくされるものと思う。逆に、そういう制約があることで、多様性と考えに対する広がり(発散)とトレードオフに、それなりの着地を促進する(収束)効果を期待できる。つまり、より強い働きかけ=活動とすることができるのではないか。すなわち、意味を骨子に据えたマーケティング自体を価値=商品とするのである。

こう考えると、とあるテーマに対する大きな方向性としてはこうではないか、という(企業)メッセージを反映した体験やプロダクトや作品を世に出す、というのはなかなかにおもしろい活動だし、企業活動がすなわち社会活動性も帯びてくるため、ある意味ポスト資本主義的であるとも言える(今市場調査にシリコンバレーに行っている阪大の僕の友人も、言っている概念である)。 

まだまだジャストアイディアベースのファジーな考えだが、購買を通して、どういう体験がプリセットされるか、というものをデザインできたら非常に幸せではないか、と思うのである。