形式として下げないことと、本質を鍛えることとの違い、を考える
先日妻と、両家家族で集まった際の場の話をしていて、妻の父親が娘をへりくだることなく紹介し、かわいがってあげてください、と言ったのが嬉しかった、という話があった。
前からも似たようなことを二人で話していたのだけど、旧来の日本的に人前でむやみに下げず、アメリカのmy great son的な紹介は僕も妻も賛成だ。期待されてるという安心感により誇りを持てる、という、内的な安定と内発的振る舞いに繋がるからだ。一方で、ズレというか違和感もあったので、考えをまとめる意味でもここに書いておく。
まず違和感でいうと、基本スタンスとしては上記の通り、my great son的な振る舞いに賛成だが、それは、前提として、上記のような振る舞いの本質を考えた上で、何を何故忌避し、何を何故肯定するのか、という骨子を持ててるか、というのがある。例えば自分の子供が、勝手気ままに振る舞ったり、横暴だったりする際も、なんでも手放しで肯定することでは当然ない。自由と責任じゃないが、前提として自己規律と内省による客観視を常に伴うものだと思ってる。
結論からいうと、ネタベタの問題だと思ってる(*1)。形式的に身内を人前で肯定的に言おうが、へりくだろうが、どのような振る舞いをしても、前提の理解と意図があるならなんでもよいが(ネタとしてならいい)、そういった本質とタテマエがわからなくなってる用法(ベタ)は最悪だ。
それでいうと、自分ももちろんそうだし、妻もそうだが、当然人としてまだまだのところがある。その中で、価値と誇りを認めつつ、一方まだまだなところはお互いちゃんと言葉や姿勢で伝え、そこを改善していく仕組みは、家庭の中といえど必要だと思う。そこのスタンスや前提を忘れてしまっては、ベタな振る舞いで最悪だ。永久に成長はない。夫婦間もそうだと思うし、将来の子供のことを考えるとなおさらだ。なので、ここを間違えず、混同せず、峻別して、意識的に自分は取り組んで行きたいと強く思う出来事だった。
コラム的なやつ
そうすると別の問題として、人間死ぬまでまだまだ問題が出てくる。結局まだまだかどうかは相対的な問題だからだ。ここには実践的な方針と、理論的な方針の2つを提示できる。
実践的な方針としては、上記のとおり実際的には相対的であることから、そこの場(成員)のレベルを推し量りながら、態度をアジャストさせていく、ということ。
理論的な方針としては、少し美学的な発想に近いが、上記のとおり実践的には相対的に適応していくものの、とはいえそんな低次元な現実に引っ張られるのではなく、理想の基準は自分の絶対的なものさしとして高め続けていく、という方針である。
この両軸的なアプローチしかあり得ないんではないか、とふと感じている。
*1 ネタベタのなんとなくの意味や雰囲気は下記で。
http://www.business-plus.net/business/0910/46704.shtml