俺も禿げたいブログ

孫正義氏の名言に触発された、将来禿げることが約束されたサラリーマンの日々の叫び

自分がアウトプットしたいと思うことをアウトプットし続けるべき理由 〜スポイルされないために〜

アウトプットすべき、それも「自分がアウトプットしたい」と思うことを継続的にアウトプットすべき理由がある、というテーマについて書いてみたいと思う。

*

僕は普通に生きることでスポイルされることに常時悩まされてきた人間だ。子供の頃から悩まされているし、今も悩まされている。

普通に生きるとスポイルされるとはどういうことか。

学校組織も会社組織も、組織は意図を持って設計されたものであって、誰かの何かの目的に沿ってデザインされている。つまり思惑がある。多くの場合その思惑は、そこに所属する人のことをその目的のためにうまく使ったり使えるようにすることであり、普通に生きている状態というのは、その力学や圧力にさらされて、しらずしらずのうちにその意図に沿って進んでいく、もしくは少なくともその意図の影響を多分に受ける、ということである。

誰か(もしくは経済システムなどによる集列体(*1)的なものでもよい)の思惑や要請の圧力にさらされた場合、自らのアウトプットもしらずしらずのうちに望まれたアウトプットになっていく。度重なるアウトプットに引きずられ、しらずしらずのうちにインプットや思考も偏る。そのため、従順に疑いもせず日常的にその圧力(これは評価制度や価値規範といった形態を取る)に沿って生きていくと、自分独自の思考性や意思的なものやオリジナリティ的なものの稼働割合・介入割合はどんどん下がっていき、しまいにはそれらが思い出せなくなるレベルまで消え去っていく恐れさえある。これをスポイルされる、と呼んでいる。すごく悪く言えば下僕化していく、ということだ。

(*1)

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これに抗う方法が、「自分がアウトプットしたい」と思ったこと、すなわち圧力とは無縁の(本稿もそうであるように、アンチテーゼ的に影響を受けている可能性はあるがw)観点や意思やWillや思考によるアウトプットを一定頻度以上ですることである。

これはこれからの社会を生きていく上で非常に意義があるし重要な作法にさえなり得ると個人的には考えている。例えば下記の『これからの世界をつくる仲間たちへ』(落合陽一)で、落合氏は次のような主旨のことを言っている。

これからの世界をつくる仲間たちへ

  • コンピュータの処理能力やAIの処理能力の向上で、旧来のホワイトカラー=効率化や先人の正解をなぞり素早く処理する職種、の価値は急速に減っていく
  • iPS細胞のような概念がこれからの医学には必要だと自ら問題提起をしさらにそれを自ら問題解決した山中教授のように、自ら適切な課題設定を社会に創造する存在をクリエイティブ・クラスと定義
  • 相変わらず従来の優秀なホワイトカラーを目指すのではなく、こういうクリエイティブ・クラスのような存在を目指すべき
  • クリエイティブ・クラスに「ロールモデル」は存在しない。なので正解探しはできない。表面を模倣してもそこにオリジナルな魅力やカリスマ性はない。

実際に近年のAIの凄まじい速度の進化で、労働力としての価値は上記のようなふるいに晒されている実感があるし、全てではないにせよ効率化や整理や世の中の情報から正解に近い回答と根拠を示すような価値は代替されつつある。そういう意味で上記のホワイトカラー的な価値が失われていく、というのは労働現場にいる生身の人間としても実感や危機感がリアルにある話だ。

上記のスポイル化はこの旧来の価値観や優秀なホワイトカラーを目指すような生き方の話と符号する。のほほんと生きたり、無自覚(非戦略的)に誰かの見せかけの期待に応え続けるような形で生きていくのは、旧来的なホワイトカラーを目指すにニアリーという意味で、批判されているような生き方まっしぐらだしオリジナルな価値は全く生まれない。

操縦桿を自分で握ってないという意味で、そもそもかなり危険な状態と言ってよいし、この時代背景的な価値の毀損の話も重なるため、ある時あなたにはもう価値がありませんとなるリスクは多分にあるが、かといってその時に責任を取ってくれるわけでもない、ということだ。

この脱却法としては根源にあるテーマは「ジブンのアタマで考える(その上で行動し、またジブンのアタマで振り返る、を繰り返す)」ということであり、そのためには思考習慣・行動習慣として他者の見えざる思惑の圧力に順化されないことが重要であり、その実現方法の一つが「自分のアウトプットしたいと思うことをアウトプットする」である、ということだ。

私も本ブログの去年のアウトプットがたった3記事だったので、今年は最低でも月1本アウトプットすることにする。

狂気に魅せられるのは人間の性か。- 映画『国宝』が伝え考えさせる美や芸について -

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映画『国宝』を観てきた。知り合いから3時間近くあるのに観れてしまう、観たらまた感想聞かせて、と紹介された映画だった。今日日、ただ映画タイトルを見るだけなら映画館に行く必要など殆ど無い時代⋯。そんな時代にあってこの作品は、心から、音も暗さも映像も映画を観るためだけに作られ、また始まったら最後まで止まることもなくインタラプトされることもない、映画館という空間で観られて本当に良かった、と思える作品だった。感想としては⋯

3時間近い時間ずっとぶっ通しで濃い⋯、そして鑑賞後の余韻 ―― 心地いい重さ、胸や腹のあたりがぶわーっとなる感じ ―― がすごかった。。

簡単に言ってしまえば芸の狂気と人間ドラマ、ということに尽きるのだが、音響といいカメラワークや照明衣装といい、役者の演技やセリフや芸といい、魅せるし魅せられてしまう⋯。美しい⋯。

任侠の息子に生まれながら運命の翻弄と定めにより歌舞伎の世界に入った喜久雄はもとより、喜久雄の輝く才に照らされすぎて陰にならぬよう自らをより陽気なキャラとして仕立てていく俊ぼうも、血の繋がった俊ぼうがほんとは何より可愛くて愛おしい親心と人格に蓋をして押し殺してまで芸と才を優先し立てることに徹する半二郎も、喜久雄の才がまだまだ昇り階段の中自分なんかで留めてではダメと自分の気持ちをぐっと留め泣きながら送り出す春江も、芸の道の険しさと残酷さは理解しながら「母」であり続けた幸子も、超越的に描かれた万菊も⋯。

決して自分はどれでもないしどの生き方とも類似はしないのに、全立場に不思議と分かってしまうような気にさせる人間ドラマと背景がある。そしてなぜこの重々しく濃い芸と人間ドラマの映画が、不思議と心地よく、頭を超えた身体や心の部分で欲してしまうのか ―― それは「狂気」というものが一種人間の本質的な部分で、日常では抑圧しているけれども本当は皆大小あれど根源的には解放したがっているものだからなのではないか。ゆえに「芸」や「美」という抗いがたい「正しさ」の前ではその解放が許されてしまう環境と構造に、擬似的に間接的にそして逆説的だが安全にその瞬間は没入し酔い入れてしまう気持ちよさへの抗いがたさを本能で感じてしまうからではないか。そんなことを感じさせる映画だった。

登場するその人間ごとにあっちとこっちのどちらの住人か、狂気と冷静、芸や美と日常や生活⋯、どっち側の人間か、が面白く混在し同居する映画だった。狂気自体の域に行き着いてしまった限られた者たち、その美に魅せられ憧れて求め続けて行動する者たち、それよりも前の普通に生きていくことや現実的生活や日常的安定や安心を求める者たち⋯。1は喜久雄や万菊であり、2は俊ぼうやその他の芸役者であり、3は幸子や彰子である。

宮台真司の「ネタ」と「ベタ」という言葉を敢えて使うなら、上記3種はどれも「ベタ」をある意味生きている。そして「あんな風には生きられねぇな」と舞台袖でこぼした竹野だけが、その狂った世界を一歩引いて観てる唯一の「ネタ」的に世の中を見・生きてる人間として描かれる。そういう意味で作中では少し異質な存在だ。

現代社会では様々な舞台装置の権威性や蓋然性が実はフィクションで恣意的なものだと誰もが理解し、世の中を冷めて「ネタ」的に見ていく傾向がどうしてもある。だからある意味竹野の見方(特に序盤)が現代では「普通」であるはずなのに、この作品に没入してしまっている我々からすると彼の方が異質で違和感がある=反射的に拒絶してしまう存在、として受け取っているから不思議だ。

これは、どんな形であれ「ベタ」的に生きる姿に、もう戻ることはあり得ないと了解しながらもノスタルジーを感じ、良き時代、と愛着を重ねてしまっている部分があるからなのか。上記の狂気への羨望とは別の、この映画で引き出されてしまうもう一つの根源的欲求なのかもしれない。確かに(特に前半の)昭和レトロな舞台が色々とマッチしててこの作品を良いものしてる、と感じている自分がいたので、それもそういうことなのかもしれない。

特徴的で残ったシーンを挙げればキリがないが、

  • カメラワークやカット
    • ガラス障子越しの父権五郎の最期のシーン
    • 国宝万菊と初めて相対した際の鏡越しのギョロッと覗き込むシーン
    • 酔って屋上で舞うシーン ⇒ 現実なんだけどどこが幻想のようなふわふわと浮遊感を感じさせながら、引きすぎでも寄りすぎでもない絶妙な距離感で足場や足元が映らないことで、ひと思いにあるいは間違いで落ちて死なないよな、と緊張感を維持させ続けるようなカメラワーク
  • セリフ・シーン
    • 半二郎が喜久雄に「ほんまもんの芸は刀や鉄砲より強いねん」といって辛いことがあっても芸で身を立ててけ、というシーン
    • 万菊が戻ってきた俊ぼうに向かって叱咤しつつ喜久雄にも言ってるように思えるシーン
    • 「見たい景色」がチラチラ見えるシーン

が個人的には強く印象に残った。

終わりに⋯。めちゃくちゃ個人的な感想を追記。

という以上のような長文を、本当は仕事をしなければいけないのをそっちのけにここまで書かせてしまうところも、この作品に出会えて良かったと思える証左だ。

昔受験模試のときに現代文で伊藤整の『典子の生き方』が題材に選ばれた回にあたり、あまりに内容に感応しすぎて、一切試験どころではなくなってしまったことがあった。その時も「受験なんてちっぽけなものより大事なものが間違いなく今ここにはある」と思って全く後悔せず作品に没頭して読み込み、その後迷わずすぐにフル版の小説を買って読んだのだが、その時と似た感覚になった。

また、オペラ座の怪人を友人夫婦と観終わったときと同じように、「良かった」んだけど感想は「良かった」じゃない、「面白かった」んだけど感想は「面白かった」じゃない、当てはまるしっくりくる言葉がなく、言葉にできない、けどすごく色々と胸に渦となって溢れ出そうな良さと濃さのある感覚だけは真実である、というような感覚。

言葉にならない⋯、そういったものを自分と対話しながら確認しこうやって一語一語アウトプットすることによって、初めて自分の感じていたものの輪郭や形がようやく見え、自分でも整理がついてくるような不思議な体験だった。良い作品の証だ。

感動も絶望も全部ないまぜに合わせ飲んで、気持ちよく狂って生きたら、人の見えない境地や景色に行き着くんじゃないか、また、もっと人生を生きたい・人間ドラマを生きたい・ヒリヒリ生きたい・あの狂気に近い世界をどんなジャンルでも良いから感じて生きたい、と欲求させられてしまう映画だった。

トランプとゼレンスキーの公開会談で浮き彫りになった、日本の持つリスクや地政学意識を上げる必要性

2025年2月28日、ホワイトハウスでトランプとゼレンスキーの公開会談があった。ご存知の通り、公開討論という形に発展し、交渉決裂と、今現在進行形でアメリカがウクライナ支援打ち切りなどに向けた方向で、状況が進行している。

 

www.youtube.com

 

僕は下記観点で本ニュースが対岸の火事ではあるものの他人事に思えず、妻とも色々と話し合った。

  • 妹がドイツ人と結婚しドイツ(ウクライナ、ロシアが所属する欧州)に住んでいる
  • ウクライナVSロシアの戦争だけだと、日本経済にもサプライチェーンや輸入原価の高騰などの形では影響を与えていたものの自らの実生活もアップアップ過ぎてまだ対岸の火事感があったが、今回の件でアメリカ株への影響や日本の安全保障など、より身近で現実的な問題として影響が実感された

今回露わになったのは、下記のような点だ。

  • トランプのような歴史的経緯や調和を重視するというより、個人の判断かつ国益ファーストでぐいっとドラスティックな意思決定を下すタイプのリーダーが国の指導者になった場合、政治・軍事・経済的、すなわち地政学的な外交(カードと交渉)があっという間にゲームチェンジし得る
  • その際、人道的な変数でいけた・成り立ってた部分が極小化し、ピュアなゲーム理論的交渉優位性のパラメータとして増大するため、普段からの経済や安全保障におけるシナリオの想定、カードの把握・作成、による交渉優位の保持が非常に重要になる(日本自らは人道的なパラメータを重視するにしても、普段から交渉優位を持ち続ける意識は全く不利なものには働かない)
  • 日本は米国に軍事および安全保障の大部分を負っているが、今回のような局面ではそのstabilityが脅かされるため、非常にリスクになるか、もしくは国としてのポジションや発言を強く取っていけなくなる可能性が高い(ウクライナが米国以外の欧州諸国からの援助を期待できない場合、国民も含めた彼らが正しいと思う意見をストレートに米国に伝えられるだろうか?)

これを受けて、良くも悪くも地球は一つで小さな世界なわけで、これをきっかけに世界の政治・軍事・経済や、母国である日本の政治・軍事(安全保障)・経済についても現状認識やリテラシーを高め、最低限の思考や意見はできる状態にならないといけないなと思った次第である。

そこで、積読していた橋爪大三郎先生の下記『戦争の社会学』をついに読む時が来たなという感があったので(これが積読の良いところ)読み始めたのだが、

「はじめに」に書いてあった内容がまさにな内容なのでここに記載する。原理原則で考えられた本質は色褪せない。

日米安保条約は、アメリカ軍が軍として機能することを前提にしている。日本に軍がなく、かりに自衛隊が軍として機能しないとしても。これが戦後の、現実ではないか。その現実から、目を背けて、平和のつくられ方を理解できるだろうか。

(中略)

戦前には、軍があった。軍は、国民のためではなく天皇のため、いや、天皇のためと言いながら実は軍自身のために、存在した。人びとは軍について、十分な議論ができなかった。 だから、愚かな戦争を、止めることができなかった。戦後は軍がなくなった。でもやっばり、戦争と軍について十分な議論ができていない。それなら、戦争や軍の本質がわかっていないという点で、戦前も戦後も変わりがないではないか。

だからこそ、軍事社会学である。

そう、軍事社会学は、戦後日本が思考停止を脱して、おとなの議論ができるようになるための、またとない入門のテキストなのだ。

読んだら、どういう部分で思考フレーム・前提知識などの向上に役立つかと、それを踏まえての現状の読み解きを書きたいと思う。

「誰が言うか」で意味合いは変わる

昨日あった2024年の紅白歌合戦星野源が歌った「ばらばら」を聴いて、色々感じるところがあったが、特にその中でも表題の点について強く感じたものがあるので書いてみたい。

星野源といえば、今は言わずとしれた国民的スターだ。そうなった背景としては、今まで蓄積してきた本人の活動や作品群が根本としてあるのだが、国民に最終的に広く浸透しインパクトを与えたのはガッキーとの結婚発表だったのではないかと思う。あのタイミングで、多少のアンチや100%受け入れきれない人達の間でも、あらゆる点において名実ともにの圧倒的実力と説得力で認めるしかない状態になったのではないか。

そんな中、昨日の2024年紅白歌合戦での「ばらばら」のパフォーマンスそれ自体が良かったのは言うまでもないのだが、私の妻がこの頃の星野源の曲やアルバムが好きだったということで、「ばらばら」が入ったアルバム『ばかのうた』(2010年)を改めて聴いてみたのだが、これが存外良く感じられた。

妻曰く山崎方代の

茶碗の底に梅干しの種二つ並びおるああこれが愛と云うものだ

という詩のような良さがあるとのことだ。

もともと星野源は好きだったのだが、私個人としては特定の曲は聴くものの、特定の年代の曲やアルバムを繰り返し聴くほどには聴いてなかったしそこまでは好きではなかったのだが、改めて聴いてみるとすごく良いし妻の言うような意味合いを感じるのだ。

はて、これはなぜだろう??と考えてみた。

よく仕事で、「どこで・誰が・どう・何を」言うかで意味合いや効果は全然変わってくる、という話が出る。本質的には「誰が言うか」で態度を変えてはいけない、ともよく言われ正しいと思うが、実際問題「同じようなこと」を言ってるようでも、見通してる時間軸や深さが全然違ったり、微妙なニュアンスが違ったりと、多くの場合「誰が」言ってるかで、安心感や納得感という受け手の感じ方だけでなく、その実行性や深さという意味で事実信憑性が大きく変わってくるものだ。つまり「何を」ではなく「誰が」によって受け止められ方が全然変わってくる、という話だ。

これと同じように、冒頭触れたような星野源の立ち位置の変化が、作品それ自体は変わっていないにも関わらず、以前僕が聴いたときとは違うものを感じさせてるのではないか。そう思ったのだ。

音楽(や映画)も「背景知識やバックグラウンド抜きに、純粋に作品それ自体でどう感じるかがすべてであるべき」という話もあり、そう思う部分もあるが、実際問題人間そんなに白黒はっきりとはできていない。『マチネの終わりに』の「未来は常に過去を変える」というのと同じ意味で、自分の境遇や変化はもとより、作品や作り手の背景(知識)や現在の最新の社会的/芸術的地位や与信によって、意味合いや捉え方は変わってくるものだ。

「未来は常に過去を変える」- マチネの終わりに

そういう意味で、同じアルバムでも今回のような感じ方の違いが生まれたり、表現されてるセンテンスやリテラルな意味以上に、作品や表現が奥行きや深さを帯びたりする可能性が出てくる。逆に表現者としては、そういうコンテキストや捉えられ方という意味でのブランディングを帯びる、ということの重要性がこのようにあると捉えることができる。

どんな立場であれ、そう思ってもらえるような普段と日常を生きたいものだ。

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(2025/01/03追記)

サルトルの『実存主義とは何か』を読んでいて「エクリチュール」について調べていたら、上記のコンテキストで作品的価値や捉えられ方が変わる、というのは、テキストや文学に限定されないだけで、まさにロラン・バルトエクリチュールの概念そのものだなと思った。

ロラン・バルトが提唱したエクリチュール(écriture)は、単に「書くこと」を意味する以上に、文化的・社会的な文脈の中での書く行為や表現のあり方を指します。具体的には、エクリチュールは言語、形式、ジャンル、スタイルなど、テクストを構成する要素全体を含み、それがどのように思想や権力、イデオロギーと結びついているかを問う概念です。

バルトは、文学やテクストが単なる情報の伝達ではなく、特定の価値観や視点を反映するものであると考え、特定の「書き方」がどのように文化的意味を生み出すのかを分析しました。この概念は、著者の意図を超えて、テクストそのものや読者の解釈に焦点を当てる構造主義ポスト構造主義の議論に大きな影響を与えました。

 

”非連続”であることの本質的な意味(『リーダーシップの旅』を読んで)

この本の価値

この本を読んでまず一番最初に思ったのは、『「巷で(99%の人はどうせ意味もわからず 流行り文句のように)よく使われている”非連続な成長”」の超本質的な意味を完全に理解できた』でした。

 

よくある「非連続な成長」に用いられる図は下記のようなもので、曰く「現在見える目標、すなわち一次関数的な目標ではなく、さらに数段アップした目標をセットすることで、一次関数的でない成長ができ、結果として(赤曲線のような)指数関数や二次以上関数曲線的な成長ができる云々かんぬん」なんですが、これ知って「へー!なるほどなるほど!じゃあ俺明日から非連続な成長できるんで頑張ります!」ってなりますか?笑 ならんでしょ笑

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非連続のよくある説明図

「破壊的イノベーション」とかも同じくで、殆どこういう言葉を使う99%の人(肌感覚だと85%くらいの人)は全部雰囲気で語ってる上に、実践に活かそうという意識が希薄なので、話すこともそれを聞くことも殆ど無意味です。

さて、何故これが説明として意味がないかというと、結果の観測(afterと客観)=表面を語ってるからです。これじゃ腹落ちしません。重要なのはbeforeとそのさなか(プロセス)にいる人の主観ではどう知覚されるのか、という生々しさが共有されて、初めて第三者にとっては読み物 or エンターテイメント以上の意味をなします。

この本はそれが初めて理解できた、という意味においてすごく価値がありました。 

本書で一番重要だと思うこと

では重要なのは何か。いちばん重要なのは、上図の一本目の青線の左端の点に自分がいるとした時に、『この地点(線上)にいる人からは「二本目の青線」のことは”絶対に見えない”』ということです。ここです。大事なことなのでもう一度言います。二本目の青線のことは絶対に見えません。この事実が一番重要です。

何故重要なのか。これが本書のリーダーシップ論と繋がります。

”リーダーシップの本質”と”見えないものを見ること”と”非連続な成長”は全てイコール

本書ではリーダーシップの特徴やプロセスとして、

  • (自分でもまだくっきりとは)見えないものを見て、
  • おぼろげにしか見えてないそれを見たい、実現したいと願い、
  • そう信じてまずリード・ザ・セルフ(自分自身がまず動き出)し、
  • その活動の中で巻き込まれていった人もそのおぼろげなものが見え始めた時、明示的なフォロワーとになりリード・ザ・ピープルになる
  • そしてリーダーとフォロワーの共振現象により大きなうねりとなり、その結果がリード・ザ・ソサイエティとなって、結果としてリーダーとなっている

という解説をしています。このプロセスの端緒は”見えないものを見ること”であり、この瞬間こそが非連続なのです。

非連続であるがゆえに、この実現にあたっては、今までのノウハウ・経験・今の能力・今アプローチできる人の範囲ではできず(この範囲でできるのであれば”見えている”ことになるため)、だからこそ難易度が高く、これまでの延長線上じゃない活動やプロセスに取り組まなければいけないのです。そのプロセスの結果として「自分のこれまでの範囲外」という意味で非連続な体験をし、それが結果非連続な成果や成長を生んでいる、とこういうことなのです(そう私は理解しました)。

なのでまとめると、”リーダーシップの本質”とは”見えないものを見ること”であり、また、見えないものを見てそれを実現するプロセスの中で、これまでの延長線上にない活動をすることで非連続なプロセスを体験し、そのプロセスの蓄積と総和が、成果や成功体験となったとき、その全体が自分の新たな地平となって”非連続な成長”をしている、ということなのです。

非連続な成長を生むための実践的意識

なので重要なことは、”見えないものを見ようとする”ことであり、それこそが最も大事です。そしてその、”見えないものを見ようとしている過程”においては、二本目の線のことは絶対に見えない、そのプロセスを経たあと結果として見えるようになるものなのだ、ということを知っておくことが、見えないものを見ようとする過程を支える、という意味において非常に重要な実践的意識になります。

形式として下げないことと、本質を鍛えることとの違い、を考える

先日妻と、両家家族で集まった際の場の話をしていて、妻の父親が娘をへりくだることなく紹介し、かわいがってあげてください、と言ったのが嬉しかった、という話があった。

前からも似たようなことを二人で話していたのだけど、旧来の日本的に人前でむやみに下げず、アメリカのmy great son的な紹介は僕も妻も賛成だ。期待されてるという安心感により誇りを持てる、という、内的な安定と内発的振る舞いに繋がるからだ。一方で、ズレというか違和感もあったので、考えをまとめる意味でもここに書いておく。

まず違和感でいうと、基本スタンスとしては上記の通り、my great son的な振る舞いに賛成だが、それは、前提として、上記のような振る舞いの本質を考えた上で、何を何故忌避し、何を何故肯定するのか、という骨子を持ててるか、というのがある。例えば自分の子供が、勝手気ままに振る舞ったり、横暴だったりする際も、なんでも手放しで肯定することでは当然ない。自由と責任じゃないが、前提として自己規律と内省による客観視を常に伴うものだと思ってる。

結論からいうと、ネタベタの問題だと思ってる(*1)。形式的に身内を人前で肯定的に言おうが、へりくだろうが、どのような振る舞いをしても、前提の理解と意図があるならなんでもよいが(ネタとしてならいい)、そういった本質とタテマエがわからなくなってる用法(ベタ)は最悪だ。

それでいうと、自分ももちろんそうだし、妻もそうだが、当然人としてまだまだのところがある。その中で、価値と誇りを認めつつ、一方まだまだなところはお互いちゃんと言葉や姿勢で伝え、そこを改善していく仕組みは、家庭の中といえど必要だと思う。そこのスタンスや前提を忘れてしまっては、ベタな振る舞いで最悪だ。永久に成長はない。夫婦間もそうだと思うし、将来の子供のことを考えるとなおさらだ。なので、ここを間違えず、混同せず、峻別して、意識的に自分は取り組んで行きたいと強く思う出来事だった。

コラム的なやつ

そうすると別の問題として、人間死ぬまでまだまだ問題が出てくる。結局まだまだかどうかは相対的な問題だからだ。ここには実践的な方針と、理論的な方針の2つを提示できる。

実践的な方針としては、上記のとおり実際的には相対的であることから、そこの場(成員)のレベルを推し量りながら、態度をアジャストさせていく、ということ。

理論的な方針としては、少し美学的な発想に近いが、上記のとおり実践的には相対的に適応していくものの、とはいえそんな低次元な現実に引っ張られるのではなく、理想の基準は自分の絶対的なものさしとして高め続けていく、という方針である。

この両軸的なアプローチしかあり得ないんではないか、とふと感じている。

*1 ネタベタのなんとなくの意味や雰囲気は下記で。
http://www.business-plus.net/business/0910/46704.shtml

内田樹の「Onepieceの組織論」を読んでの感想 〜感性回帰は禿同です!〜

 

以下、友達から下記の内田樹先生の「Onepieceの組織論」の一読を勧められての感想。

http://blog.tatsuru.com/2020/01/11_1040.html

 

▽ぱっと思ったこと箇条書き

  • 7つの習慣的なこと(相互依存、他者貢献)を感情の動き(漫画)から解説してる感をまず感じた
  • 三島由紀夫的な感性に近いものを感じた。強さ、行き着く形式の美しさ。鋭さ。
  • 感染という言葉の宮台真司の主張との類似性を感じた
  • 武道、テキスト以前のコミュニケーションとしての韻律を伴う朗誦や舞踏的な継承と通底
  • 「雇用環境が激しく劣化している日本の若い読者たちの間には」の一文には共感する部分がある
  • 後半の、創造的採用戦略の話は共感する一方、実経験からすると、相当組織側にそういう風土がなければ成り立たないものだと思った。一言で言うなら、組織側が「信じる」そして「変われる」風土があるか。
  • 一方で、どうして雇われたのか?という問いを持ち続けるというスタンスはすごく良いと思った。(無意味な中に意味を見出す作法として)

 

▽総論(この文を評するものじゃなく、これを受けて総論として個人的ににどう思ったか)

  • ロジックと感性の両方性、もう少しいうとロジックをなくすのではない感性への回帰、みたいなものは、MBA的なものからMFA的な文脈の世界の流れもあるがそれとは関係なく、ここ2年くらいの個人的なテーマとしても結構重要なテーマだったので、そういったことを再考させられた。
  • 個人的にそれを考えるきっかけになったのは、仕事のフィールドとして一貫してIT畑ではあるものの、文化強い系の基幹システム大手ベンダー→SaaS最前線の会社へ移り(今はまた別の会社)、働き方の効率化と同時に、それこそ”強い”コミュニケーションの欠落を感じた。それは何かというと、感情と意味づけの希薄化。そして、見田宗介的な人格的な場としての機能の希薄化。
  • 労働環境に加え、コミュニケーションの粗さが薄れる構造、感情でぶつかり合う機会の減少、五感を使う機会の減少、危険を伴う機会の減少が自分の上記問題意識につながっていると感じている。
  • 先日佐渡に潜りに行って、割と沖に行った際に、親父や一緒に行った先輩が「恐い」と後に語ったくらいの領域が、正直自分にはやっと心地よかった。これはアクションジャンキーなのではなく、ようやくそこが自分の五感をフルに働かせるに丁度いい条件が整っていたからだ。冷たい水温、肌にたまにようにあたっては砕ける水の塊、シュノーケルから入るしょっぱい海水、耳まで浸かると途端に「水の中の音」になる水中、水中の岩肌に合わせて深さがめくるめく移ろう中に岩と同化しつつもわずかにだけ貝のそれと分かる出っ張りや、なんとも言えない「違和感」。その違和感に少しずつ素早く察知できるようになっていっている自分の鋭い感性。この様々な変化自体が明らかに都心にいては感じられない情報過多でありながら、信じられないくらい心地よく身体は処理して受け入れている。
  • 佐渡に行く前に悩まされてたメニエール症候群の症状は佐渡以降出ていない。
  • 話は逸れたが、組織論以前に、組織を”機能”ではなく、結びつきと存在性という意味論で捉えた上で、その後に機能に行き当たる、という捉え方自体にやはり思想があり、それに対しては個人的に共感する。
  • 組織論としては、実体組織に合っていないとは思うが、そういった感性を機能に加えて持った組織の方が、実際に強い組織であることは経験済みである。これを表面的なテクニックではなく、実際上高度に行うことが本当のマネジメントに他ならない。その文化を作ることには多大なコストがかかることを実感している。最も使うコストはエネルギーと時間だ。なので多くの組織はそれをかけない。だが、個人的にはかける組織の方が好きだ。
  • 世の中で言うビジョンも、結局はそれを引き出す道具に過ぎない。そうでなければ唯のおかざりだ。嘘言うくらいなら掲げるなと思う。感染させる強い言葉というのはそういうことだ。そうでなきゃ嘘だ。
  • 読んでの自戒でいうと、エネルギーの湧く意味づけや、機能的でありながら人格的な環境の構築へのエネルギーは、自分でもできるし、何よりまず自ら出てこないといけない。じゃないとlead the peopleの前のlead the selfにならない。「当たり前だが」とすぐ枕詞につけたくなるが今回はつけない。再認した。つまり忘れていたので、全然自分の中では当たり前にできていないのだ。そう働きかける方法を、明日から考え実行しようと思う。

 

▽メタ的な感想

  • 読書体験や映画体験は”旅”であるべきだと思った。それは即ち、日常の延長線上にないどこか問題提起の場所に連れて行かれ、そこを”思考”によるもがき、試行錯誤によって意味を転置し直し、日常に戻ってくる、着地する、という作業を通しての日常の非日常化、というプロセス。
  • これこそがもともとやりたかった映画会や読書会や朝会の主旨だ。(朝会はやってます)(映画会はたまに)(読書会はほぼやってません)