”非連続”であることの本質的な意味(『リーダーシップの旅』を読んで)
この本の価値
この本を読んでまず一番最初に思ったのは、『「巷で(99%の人はどうせ意味もわからず 流行り文句のように)よく使われている”非連続な成長”」の超本質的な意味を完全に理解できた』でした。
よくある「非連続な成長」に用いられる図は下記のようなもので、曰く「現在見える目標、すなわち一次関数的な目標ではなく、さらに数段アップした目標をセットすることで、一次関数的でない成長ができ、結果として(赤曲線のような)指数関数や二次以上関数曲線的な成長ができる云々かんぬん」なんですが、これ知って「へー!なるほどなるほど!じゃあ俺明日から非連続な成長できるんで頑張ります!」ってなりますか?笑 ならんでしょ笑
「破壊的イノベーション」とかも同じくで、殆どこういう言葉を使う99%の人(肌感覚だと85%くらいの人)は全部雰囲気で語ってる上に、実践に活かそうという意識が希薄なので、話すこともそれを聞くことも殆ど無意味です。
さて、何故これが説明として意味がないかというと、結果の観測(afterと客観)=表面を語ってるからです。これじゃ腹落ちしません。重要なのはbeforeとそのさなか(プロセス)にいる人の主観ではどう知覚されるのか、という生々しさが共有されて、初めて第三者にとっては読み物 or エンターテイメント以上の意味をなします。
この本はそれが初めて理解できた、という意味においてすごく価値がありました。
本書で一番重要だと思うこと
では重要なのは何か。いちばん重要なのは、上図の一本目の青線の左端の点に自分がいるとした時に、『この地点(線上)にいる人からは「二本目の青線」のことは”絶対に見えない”』ということです。ここです。大事なことなのでもう一度言います。二本目の青線のことは絶対に見えません。この事実が一番重要です。
何故重要なのか。これが本書のリーダーシップ論と繋がります。
”リーダーシップの本質”と”見えないものを見ること”と”非連続な成長”は全てイコール
本書ではリーダーシップの特徴やプロセスとして、
- (自分でもまだくっきりとは)見えないものを見て、
- おぼろげにしか見えてないそれを見たい、実現したいと願い、
- そう信じてまずリード・ザ・セルフ(自分自身がまず動き出)し、
- その活動の中で巻き込まれていった人もそのおぼろげなものが見え始めた時、明示的なフォロワーとになりリード・ザ・ピープルになる
- そしてリーダーとフォロワーの共振現象により大きなうねりとなり、その結果がリード・ザ・ソサイエティとなって、結果としてリーダーとなっている
という解説をしています。このプロセスの端緒は”見えないものを見ること”であり、この瞬間こそが非連続なのです。
非連続であるがゆえに、この実現にあたっては、今までのノウハウ・経験・今の能力・今アプローチできる人の範囲ではできず(この範囲でできるのであれば”見えている”ことになるため)、だからこそ難易度が高く、これまでの延長線上じゃない活動やプロセスに取り組まなければいけないのです。そのプロセスの結果として「自分のこれまでの範囲外」という意味で非連続な体験をし、それが結果非連続な成果や成長を生んでいる、とこういうことなのです(そう私は理解しました)。
なのでまとめると、”リーダーシップの本質”とは”見えないものを見ること”であり、また、見えないものを見てそれを実現するプロセスの中で、これまでの延長線上にない活動をすることで非連続なプロセスを体験し、そのプロセスの蓄積と総和が、成果や成功体験となったとき、その全体が自分の新たな地平となって”非連続な成長”をしている、ということなのです。
非連続な成長を生むための実践的意識
なので重要なことは、”見えないものを見ようとする”ことであり、それこそが最も大事です。そしてその、”見えないものを見ようとしている過程”においては、二本目の線のことは絶対に見えない、そのプロセスを経たあと結果として見えるようになるものなのだ、ということを知っておくことが、見えないものを見ようとする過程を支える、という意味において非常に重要な実践的意識になります。
形式として下げないことと、本質を鍛えることとの違い、を考える
先日妻と、両家家族で集まった際の場の話をしていて、妻の父親が娘をへりくだることなく紹介し、かわいがってあげてください、と言ったのが嬉しかった、という話があった。
前からも似たようなことを二人で話していたのだけど、旧来の日本的に人前でむやみに下げず、アメリカのmy great son的な紹介は僕も妻も賛成だ。期待されてるという安心感により誇りを持てる、という、内的な安定と内発的振る舞いに繋がるからだ。一方で、ズレというか違和感もあったので、考えをまとめる意味でもここに書いておく。
まず違和感でいうと、基本スタンスとしては上記の通り、my great son的な振る舞いに賛成だが、それは、前提として、上記のような振る舞いの本質を考えた上で、何を何故忌避し、何を何故肯定するのか、という骨子を持ててるか、というのがある。例えば自分の子供が、勝手気ままに振る舞ったり、横暴だったりする際も、なんでも手放しで肯定することでは当然ない。自由と責任じゃないが、前提として自己規律と内省による客観視を常に伴うものだと思ってる。
結論からいうと、ネタベタの問題だと思ってる(*1)。形式的に身内を人前で肯定的に言おうが、へりくだろうが、どのような振る舞いをしても、前提の理解と意図があるならなんでもよいが(ネタとしてならいい)、そういった本質とタテマエがわからなくなってる用法(ベタ)は最悪だ。
それでいうと、自分ももちろんそうだし、妻もそうだが、当然人としてまだまだのところがある。その中で、価値と誇りを認めつつ、一方まだまだなところはお互いちゃんと言葉や姿勢で伝え、そこを改善していく仕組みは、家庭の中といえど必要だと思う。そこのスタンスや前提を忘れてしまっては、ベタな振る舞いで最悪だ。永久に成長はない。夫婦間もそうだと思うし、将来の子供のことを考えるとなおさらだ。なので、ここを間違えず、混同せず、峻別して、意識的に自分は取り組んで行きたいと強く思う出来事だった。
コラム的なやつ
そうすると別の問題として、人間死ぬまでまだまだ問題が出てくる。結局まだまだかどうかは相対的な問題だからだ。ここには実践的な方針と、理論的な方針の2つを提示できる。
実践的な方針としては、上記のとおり実際的には相対的であることから、そこの場(成員)のレベルを推し量りながら、態度をアジャストさせていく、ということ。
理論的な方針としては、少し美学的な発想に近いが、上記のとおり実践的には相対的に適応していくものの、とはいえそんな低次元な現実に引っ張られるのではなく、理想の基準は自分の絶対的なものさしとして高め続けていく、という方針である。
この両軸的なアプローチしかあり得ないんではないか、とふと感じている。
*1 ネタベタのなんとなくの意味や雰囲気は下記で。
http://www.business-plus.net/business/0910/46704.shtml
内田樹の「Onepieceの組織論」を読んでの感想 〜感性回帰は禿同です!〜
以下、友達から下記の内田樹先生の「Onepieceの組織論」の一読を勧められての感想。
http://blog.tatsuru.com/2020/01/11_1040.html
▽ぱっと思ったこと箇条書き
- 7つの習慣的なこと(相互依存、他者貢献)を感情の動き(漫画)から解説してる感をまず感じた
- 三島由紀夫的な感性に近いものを感じた。強さ、行き着く形式の美しさ。鋭さ。
- 感染という言葉の宮台真司の主張との類似性を感じた
- 武道、テキスト以前のコミュニケーションとしての韻律を伴う朗誦や舞踏的な継承と通底
- 「雇用環境が激しく劣化している日本の若い読者たちの間には」の一文には共感する部分がある
- 後半の、創造的採用戦略の話は共感する一方、実経験からすると、相当組織側にそういう風土がなければ成り立たないものだと思った。一言で言うなら、組織側が「信じる」そして「変われる」風土があるか。
- 一方で、どうして雇われたのか?という問いを持ち続けるというスタンスはすごく良いと思った。(無意味な中に意味を見出す作法として)
▽総論(この文を評するものじゃなく、これを受けて総論として個人的ににどう思ったか)
- ロジックと感性の両方性、もう少しいうとロジックをなくすのではない感性への回帰、みたいなものは、MBA的なものからMFA的な文脈の世界の流れもあるがそれとは関係なく、ここ2年くらいの個人的なテーマとしても結構重要なテーマだったので、そういったことを再考させられた。
- 個人的にそれを考えるきっかけになったのは、仕事のフィールドとして一貫してIT畑ではあるものの、文化強い系の基幹システム大手ベンダー→SaaS最前線の会社へ移り(今はまた別の会社)、働き方の効率化と同時に、それこそ”強い”コミュニケーションの欠落を感じた。それは何かというと、感情と意味づけの希薄化。そして、見田宗介的な人格的な場としての機能の希薄化。
- 労働環境に加え、コミュニケーションの粗さが薄れる構造、感情でぶつかり合う機会の減少、五感を使う機会の減少、危険を伴う機会の減少が自分の上記問題意識につながっていると感じている。
- 先日佐渡に潜りに行って、割と沖に行った際に、親父や一緒に行った先輩が「恐い」と後に語ったくらいの領域が、正直自分にはやっと心地よかった。これはアクションジャンキーなのではなく、ようやくそこが自分の五感をフルに働かせるに丁度いい条件が整っていたからだ。冷たい水温、肌にたまにようにあたっては砕ける水の塊、シュノーケルから入るしょっぱい海水、耳まで浸かると途端に「水の中の音」になる水中、水中の岩肌に合わせて深さがめくるめく移ろう中に岩と同化しつつもわずかにだけ貝のそれと分かる出っ張りや、なんとも言えない「違和感」。その違和感に少しずつ素早く察知できるようになっていっている自分の鋭い感性。この様々な変化自体が明らかに都心にいては感じられない情報過多でありながら、信じられないくらい心地よく身体は処理して受け入れている。
- 佐渡に行く前に悩まされてたメニエール症候群の症状は佐渡以降出ていない。
- 話は逸れたが、組織論以前に、組織を”機能”ではなく、結びつきと存在性という意味論で捉えた上で、その後に機能に行き当たる、という捉え方自体にやはり思想があり、それに対しては個人的に共感する。
- 組織論としては、実体組織に合っていないとは思うが、そういった感性を機能に加えて持った組織の方が、実際に強い組織であることは経験済みである。これを表面的なテクニックではなく、実際上高度に行うことが本当のマネジメントに他ならない。その文化を作ることには多大なコストがかかることを実感している。最も使うコストはエネルギーと時間だ。なので多くの組織はそれをかけない。だが、個人的にはかける組織の方が好きだ。
- 世の中で言うビジョンも、結局はそれを引き出す道具に過ぎない。そうでなければ唯のおかざりだ。嘘言うくらいなら掲げるなと思う。感染させる強い言葉というのはそういうことだ。そうでなきゃ嘘だ。
- 読んでの自戒でいうと、エネルギーの湧く意味づけや、機能的でありながら人格的な環境の構築へのエネルギーは、自分でもできるし、何よりまず自ら出てこないといけない。じゃないとlead the peopleの前のlead the selfにならない。「当たり前だが」とすぐ枕詞につけたくなるが今回はつけない。再認した。つまり忘れていたので、全然自分の中では当たり前にできていないのだ。そう働きかける方法を、明日から考え実行しようと思う。
▽メタ的な感想
- 読書体験や映画体験は”旅”であるべきだと思った。それは即ち、日常の延長線上にないどこか問題提起の場所に連れて行かれ、そこを”思考”によるもがき、試行錯誤によって意味を転置し直し、日常に戻ってくる、着地する、という作業を通しての日常の非日常化、というプロセス。
- これこそがもともとやりたかった映画会や読書会や朝会の主旨だ。(朝会はやってます)(映画会はたまに)(読書会はほぼやってません)
やっぱり紙の本って優れてたんだなー、という話
と思ったきっかけ
むかーし買ったっきり全然読んでなかった本を久しぶりに引っ張り出してきたら、今悩んでたテーマを考えるにあたってすごい整理されて、存外役に立った、という話なんだけど、これって電子本じゃムリだよなー紙本だったからこれ起きたんだよなー、と思ったので、何度も同じテーマについて考えるの嫌いな性格なので、一回整理して結論を出しちゃおうというノリで、記事を書きます。
ちなみに、ここ(本は、考えるなら紙、インプットならKindle - 俺も禿げたいブログ)では、
ということを書いたが、それの続編というかまとめ的なイメージになるのかなと。
結論
まず、もう結論からいうと、上記のような単独の読書体験だけではなく、そもそも読書にリーチするまでのマーケティングとしても紙本は優れていた、とこういうことなのですが、結論のまとめとしては下記です。
結論
- 紙本は前回の記事のとおりやはり思考に適している
- 棚に並べて背表紙や表紙で各本を一覧化していつでも見れる、かつ見れる範囲が画面によらないって、結構UI最強
- 今回みたいに本が埋蔵されてても、(目につくので)ふとした際に発掘されることがある(電子本はリーチまでに能動性が必ず求められる)
- 紙本は、思考しやすい、に並んで、記憶にも残りやすい
- 仕事と同じく思考はテンポが大事だと思ってるんだけど、紙の方がページの移動や記入(メモ)にあたってテンポが良い
これらを上記結論からwhy?で考えたときの理由は、
- カラーなどに加えて、質量があり、厚さなどがあることから、空間を専有するから、自分に対するマーケティング効果(届く効果)が大きい
- 直近読む本は机の上、よく読む本はこの棚、などUIをかなり自由度高くカスタマイズできる
- 読み出しにスイッチをONにするなどの無駄な動線が一切ないため、思考が分断されない
です。
その他、今回のテーマを考えてみて
電子本っていう概念が出てから、改めて紙本のメリットってなんだったんだろう?っていう思考プロセスって面白いなーと思いました。電子本が出て、新たな制約が出てこないと、棚に並べて整理することってUI(UX)設計だったんだ!とか思うことなかったでしょうし。そういう意味で、メリットの再発見って、色んなものが再発明されることで、改めて見えてくるんだなーと。
とはいえ、前の記事で書いたように移動時の読書や、最近だと防水kindleがあるのでお風呂での読書や、旅の時なんかはやっぱり便利だと思うので、スタイルに合わせて各々がうまくチューニングしていけるといいですね^^
以上。
Apple Watch 5は、完璧ではないが今必要なニーズはほぼ満たすガジェットだ
今までいくつかスマートウォッチを使ってきた僕だが(TicWatch Pro→Galaxy Watch→Apple Watch)、十分に満足できていなかった。ところが、去年の12月からApple Watch 5を使い始めて、
最初不便だったApple Watchも、ハックした使い方を見出したら十分使いこなせてQOL上がった
という話。
ちなみにスマートウォッチ選びで重要なのは、知足、すなわち何があれば満足か己のニーズをよく知ること、が一番大切だなーと思いました。まあなんでもそうですが。。
僕が日常的に抱えてた課題は下記のようなものでした。(まぁまぁ多いな笑)
- 知人からの通知や着信に気づかず待ち合わせなどに不備が発生(プライベート)
- 社内メッセージの通知に気づかず対応が遅れる(仕事)
- 着信に気づけず、配達タイミングや電話折返しタイミングなどを逃してしまう
- スマホのタイマー機能を、作業や思考の集中、電車の乗り降りのアラームなど色んな場面で多用していたが、毎回スマホで設定するのはだるい
- 電卓機能も、頭の中で計算しきれない色んな計算をする際に多用していたが、これもスマホを出して電卓起動だと時間がかかりすぎるのでもっとスピーディーにしたい
- カレンダー(暦)をスマホや手帳を出さずにすぐ確認できるようにしたい
- 日本の正確な電車運行では、「今何秒か」まで発着確認時は重要なので、秒数表示(秒針)までして欲しい
- 訪問の振り返りのため録音をすることがよくあるが、iPhoneだと胸やカバンに入れてるので音質が悪い。かつ録音すると待機画面に録音してます表示されてしまい心象が悪い。また、訪問開始後に録音開始を忘れていたことに気づくと録音できない。
- 海外に住んでる(た)彼女と電話可能な時間をすぐ確認するために、世界の他都市の時間を常時表示orすぐ確認できるようにしたい
要は種々の通知の閲覧ができて、返信や応答もできて、その他これらの便利機能に素早くアクセスできる、ってのが条件ってことなんですが、Galaxy Watchはこの大半は満たすものの、いくつかはやっぱり満たせませんでした(名誉のために言っておくと、それ以外の使用体験としてはApple Watchよりかなり優れてると言って良いと思います)。
上記の機能的なニーズに加え、見た目的なニーズとして、「無駄なものがなくシンプルな時計画面がいい」というニーズを加えると、機能的には下記のようなニーズでした。
- LINE・メール・Slack・Messenger・着信などの通知とメッセージ内容確認、できれば返信や応答ができる
- アラームorタイマーに即座にアクセスしてセットできる
- 電卓を即座に起動して計算できる
- カレンダーがすぐ確認できる(予定確認ではなく、暦という意味での月間カレンダーが見れる)
- 秒がわかる
- 時計での録音を即座に開始できる
- 世界時計にすぐアクセスできるorデフォ画面に表示できる
- かつできるだけシンプルな時計画面が良く、日付は表示させたい、年や月は表示させたくない
- (逆にヘルス機能やスポーツ機能は僕からしたら要らないものだったので、あってもなくても良い)
これらが、やりようによっては、Apple Watchで全てできるんですね(カレンダーは「こよみ」という無料アプリを入れる必要がある)。基本的にはこれらは標準機能orフリーアプリにあるのでそれを落とせばOKです。
あとはポイントとなるハック的な使い方としては、
- シンプルな時計画面と多機能アクセス用時計画面の2画面を用意し、
(僕の場合、
シンプル用:「カリフォルニア」・「ユーティリティ」
多機能アクセス用:「インフォグラフ」→8個の任意アプリがおける
を用意) - 機能が必要な際には、シンプル用のデフォ画面から1スワイプだけで多機能画面に素早くアクセスして機能をタップ
とするだけです(下記イメージ)。これ、一度覚えるとマジ便利です。
Apple Watchの悩ましさは、
- 普通のアプリ選択画面からのアプリアクセスがすごく鈍く不便で
- さらに、時計画面がサードパーティに解放されてなく、デフォルトの時計画面にアプリをまあまあ置ける良い感じのものがほとんどない
ということなのですが(Galaxy Watchも良い時計画面はあまりないが、種々の便利ツールへのアクセスはしやすいUIになってる)、それに対してこの方法は、「シンプルで必要最小限のものだけの時計画面を表示」しながら、「拡張的で便利ではあるがトップ画面に全て並べようとするとうるさすぎる機能」を「必要なときにだけスピーディーにアクセスする」ことができるのです。是非お試しあれ。
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以下はおまけ。
下記はもともと欲しかった機能ではないのですが、Apple Watchと組み合わせて使うと超便利!となったアプリや機能です。
- SoundHoundで曲検索
→カフェとか通りすがりに、「あ、この曲検索したい!」と思った際に一瞬で検索できるようになる。検索し逃すってことがほとんどなくなる - bitkeyキーのロック解除
→自宅よりはオフィスとか複数人が頻繁に出入りするドアでは超便利! オートロック機能と併用するとかなり便利。
ちなみにここの記事も超優良です。ご参考あれ。
https://chasuke.com/watchapp/#st-toc-h-6
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ちなみに下記は完全に余談ですが、、
(2017年頃〜2019年末までは、iPhoneもジョブズが死んで終わったなー、とかいって(実際そういう時期はあったと思ってます)、iPhoneからGalaxyとGalaxy Watchの組み合わせに切り替えてた僕ですが、Galaxyの電池劣化を機に2019年末にiPhone11を買って、電池の持ちやその他UI/UXの大幅な改善に一瞬で魅了され、一瞬でmac・iPad Pro・Apple Watchと追加購入し、りんごに50万近く貢ぎましたw けど良いww)。
本は、考えるなら紙、インプットならKindle
本は紙、という拘りが強い人もいる中で、紙の書籍にするか、Kindleにするか、なかなか一本化できずに迷っている人も多いのではないだろうか? 僕もその一人だ(ちなみに、紙の本も読むが、Kindle本だけでも数えたらちょうど99冊持っていた)。そんな私が出したシンプルな結論は表題の通り、
「思考するために読むなら紙。情報のインプットとしてならKindle」
である。
紙とKindleの細かな比較やメリデメは、他のブログがいやという程やっているのでそちらを見て頂くとして、シンプルに紙のデメリットとKindle版のメリットを比較し、それでも余りある紙のメリットがあるか?という思考法を取れば良い。
紙のデメリットは、
- 書店まで行かなければ見れないし買えないので、興味を持ってから読み出しまでに時間がかかる
- 普段読むにあたっても重い本は重い(移動しながらの読書に不適)
- まとまった読書時間が持てる出張や旅行時に複数冊持っていきたいができない(重いのとかさばるのと)
翻って、Kindleのメリットは
- 読みたい!と思ってから購入~読める状態の実現、までが瞬時であること
- 普段読書にストレスが全くない軽さ
- 全冊入った状態なので、Kindle一冊だけ持っていけば良い
である。
個人的な感覚としては、Kindleは紙に対して十分なエクスペリエンスを提供していると思う。厳密には目次とページの行ったり来たりなどは紙の方がしやすいという意見もあるが、ページリンクで一瞬で飛べたり、ページ繰りもKindle paper white(スマホ版じゃないという意味)だと高速ページめくりの機能があるので個人的には十分かと思う。
ただそういったことがあっても、やっぱり紙の方が良い、という瞬間が存在する。それが、インプットとして読むのではなく、深く思考するために読むとき、何かのテーマや課題について考えるために没入して深く読むとき、である。この時だけは、確かに紙の方が良いのだ。そしてそういう機会は意外に多い(というか、本質的には、暇つぶしでもない限り、それ以外のために本は読むべきでないとも思ってる)。人生上の課題解決のために本を読むことも多いと思うが、その際には殆どの場合この「深い思考のために読む」に該当するのではないだろうか。
では何故紙の方が思考に適すのかの理由だが、感覚としては、
- 紙(印刷物)であるという存在のリアリティーの大きさ
- サイズ的な意味での大きさ(視認性のUX)
- 書き込めることによる思考の活性化
だと思う。もっというと、三つをセットにして、シンプルにリアリティーの差としての思考に与える影響、ということに集約すると思う。つまりシンプルにモノとしてそこに存在することで、リアリティーが増し、思考が活性化されるということ。(こう言ってしまうと電子書籍としてはどうしようもないことだが、美術品を観賞に行った際に、美術品の存在としてのリアリティーもそうだし、美術館であるということや、その空間であることの意味や価値があるから、それが体験として思考に強く働きかけるのと同じ理屈で、レシーバーである人間の構造上しょうがない。)
では何故リアリティーが思考に強い相関があるのかをもう少し深く考察してみると、『思考は現実化する』のナポレオン・ヒルじゃないが、ある意味「思考は現実化したがっているから」、あるいは「現実化するために思考しているから」、ともいうことができるのではないか。つまり、何故リアリティーが重要かといえば、リアルにするために思考しているから、ということである。
完全に余談だが、これはシステム系(無形商材)のBtoB営業経験者ならよくわかることだと思うが、やはり製品デモというのは強力な武器となるのだ。資料と口頭だけではリアリティーが伝わらないお客さんでも、デモを見たら一発で反応が変わった、ということはよくあることで、これもリアリティーの差によるのである。
よって、結論としては、Kindleは非常に便利なんだけれども金に制限がないのなら、思考のために本を読んでいるという目的の性質上、効果を最大化する理想的な本の買い方・読み方は以下だ。
- 即座に読みたい場合を除いて、インプットではなく考えるための本は基本的には紙で買う
- 思考を刺激する要所にはガンガン書き込んでおおいに思考を刺激し、ネクストアクションに繋げるような読み方をする
- 移動時読書のニーズや出張・旅行時読書のニーズが出てきたら、その際に必要な本を再度Kindleで買う
(これは基本的に、紙本の作りが構造的に重たいケースか、複数書籍持っていきたい、のどちらかに該当する時だろう)
無責任な書き方だが金に余裕がないならこのバランスだ(笑)。
そして、まだ実現はしていないが、下記記事の通り、紙本を購入したら追加出費によってデジタル書籍を購入できるようになったら完璧だと思う。
顧客視点に立って、早期に実現してくれることを祈る。
紙の本を買ったら電子書籍(Kindleなど)がついてきたら嬉しくないですか?
https://ytkglife.net/paperbook-and-digitalbook/
@ttsubuanさんから
参照の再帰的影響(リフレクション)は映画や芸術だけにとどまらない
まとめ
- 映画やアートなど現実に対する参照の作品は、ただ鑑賞されるだけでなく、作品によっては同時に再帰的に強い実行動を伴う影響を与える
- 近代~現代にかけての思想とセットになった、現代社会に対する問いかけの参照性を持ちつつ、その再帰的影響を意図した経済的活動ができると面白い
昔、現実の演劇性と擬制について書いたことがある(違うブログで、リンクがなくなってしまっていたのでここに書けないが)。演劇は、演者と観客双方が、演技や設定を「そうであるとみなす」ことを前提に進んでいくが、現実においても法律の擬制などのように、「そうみなす=擬制」ことによって現実が進行していく要素がある、という内容である。
映画や演劇の重要な機能として、前提となるみなしの領域と輪郭をぼかし、フレームを敢えてシフトすることで、捉え方や現実的課題に疑問を投げかけ、鑑賞者に問を与える、というものがある。通常、鑑賞者は、その映画をあくまで「現実を参照した作品」としてメタ認知した上で鑑賞体験を思考する。しかし、下記『バットマンの死』では、そういったメタ性の枠を超え、鑑賞者がより強い影響を受けて行動する例を挙げて、より能動的な影響を指摘している。もちろん理屈として、マーケ要素を強めれば、そう作ることは全然可能である。
私は、この問いが問いとして終われるのか、その先に少なくともなにがしかのリーディングがあるのかによって芸術と商業的要素とのグラデーションがあるのではないかと思っているが、逆に言うと、そのバランスを調整することによってビジネスとして成り立つのだったら非常に面白いのではないかと思っている。
芸術が純粋に問いを投げかけることで終われるのに対し、ビジネスは購買活動を促す以上、何らかの答え、少なくとも方向性の提示は余儀なくされるものと思う。逆に、そういう制約があることで、多様性と考えに対する広がり(発散)とトレードオフに、それなりの着地を促進する(収束)効果を期待できる。つまり、より強い働きかけ=活動とすることができるのではないか。すなわち、意味を骨子に据えたマーケティング自体を価値=商品とするのである。
こう考えると、とあるテーマに対する大きな方向性としてはこうではないか、という(企業)メッセージを反映した体験やプロダクトや作品を世に出す、というのはなかなかにおもしろい活動だし、企業活動がすなわち社会活動性も帯びてくるため、ある意味ポスト資本主義的であるとも言える(今市場調査にシリコンバレーに行っている阪大の僕の友人も、言っている概念である)。
まだまだジャストアイディアベースのファジーな考えだが、購買を通して、どういう体験がプリセットされるか、というものをデザインできたら非常に幸せではないか、と思うのである。