内田樹の「Onepieceの組織論」を読んでの感想 〜感性回帰は禿同です!〜
以下、友達から下記の内田樹先生の「Onepieceの組織論」の一読を勧められての感想。
http://blog.tatsuru.com/2020/01/11_1040.html
▽ぱっと思ったこと箇条書き
- 7つの習慣的なこと(相互依存、他者貢献)を感情の動き(漫画)から解説してる感をまず感じた
- 三島由紀夫的な感性に近いものを感じた。強さ、行き着く形式の美しさ。鋭さ。
- 感染という言葉の宮台真司の主張との類似性を感じた
- 武道、テキスト以前のコミュニケーションとしての韻律を伴う朗誦や舞踏的な継承と通底
- 「雇用環境が激しく劣化している日本の若い読者たちの間には」の一文には共感する部分がある
- 後半の、創造的採用戦略の話は共感する一方、実経験からすると、相当組織側にそういう風土がなければ成り立たないものだと思った。一言で言うなら、組織側が「信じる」そして「変われる」風土があるか。
- 一方で、どうして雇われたのか?という問いを持ち続けるというスタンスはすごく良いと思った。(無意味な中に意味を見出す作法として)
▽総論(この文を評するものじゃなく、これを受けて総論として個人的ににどう思ったか)
- ロジックと感性の両方性、もう少しいうとロジックをなくすのではない感性への回帰、みたいなものは、MBA的なものからMFA的な文脈の世界の流れもあるがそれとは関係なく、ここ2年くらいの個人的なテーマとしても結構重要なテーマだったので、そういったことを再考させられた。
- 個人的にそれを考えるきっかけになったのは、仕事のフィールドとして一貫してIT畑ではあるものの、文化強い系の基幹システム大手ベンダー→SaaS最前線の会社へ移り(今はまた別の会社)、働き方の効率化と同時に、それこそ”強い”コミュニケーションの欠落を感じた。それは何かというと、感情と意味づけの希薄化。そして、見田宗介的な人格的な場としての機能の希薄化。
- 労働環境に加え、コミュニケーションの粗さが薄れる構造、感情でぶつかり合う機会の減少、五感を使う機会の減少、危険を伴う機会の減少が自分の上記問題意識につながっていると感じている。
- 先日佐渡に潜りに行って、割と沖に行った際に、親父や一緒に行った先輩が「恐い」と後に語ったくらいの領域が、正直自分にはやっと心地よかった。これはアクションジャンキーなのではなく、ようやくそこが自分の五感をフルに働かせるに丁度いい条件が整っていたからだ。冷たい水温、肌にたまにようにあたっては砕ける水の塊、シュノーケルから入るしょっぱい海水、耳まで浸かると途端に「水の中の音」になる水中、水中の岩肌に合わせて深さがめくるめく移ろう中に岩と同化しつつもわずかにだけ貝のそれと分かる出っ張りや、なんとも言えない「違和感」。その違和感に少しずつ素早く察知できるようになっていっている自分の鋭い感性。この様々な変化自体が明らかに都心にいては感じられない情報過多でありながら、信じられないくらい心地よく身体は処理して受け入れている。
- 佐渡に行く前に悩まされてたメニエール症候群の症状は佐渡以降出ていない。
- 話は逸れたが、組織論以前に、組織を”機能”ではなく、結びつきと存在性という意味論で捉えた上で、その後に機能に行き当たる、という捉え方自体にやはり思想があり、それに対しては個人的に共感する。
- 組織論としては、実体組織に合っていないとは思うが、そういった感性を機能に加えて持った組織の方が、実際に強い組織であることは経験済みである。これを表面的なテクニックではなく、実際上高度に行うことが本当のマネジメントに他ならない。その文化を作ることには多大なコストがかかることを実感している。最も使うコストはエネルギーと時間だ。なので多くの組織はそれをかけない。だが、個人的にはかける組織の方が好きだ。
- 世の中で言うビジョンも、結局はそれを引き出す道具に過ぎない。そうでなければ唯のおかざりだ。嘘言うくらいなら掲げるなと思う。感染させる強い言葉というのはそういうことだ。そうでなきゃ嘘だ。
- 読んでの自戒でいうと、エネルギーの湧く意味づけや、機能的でありながら人格的な環境の構築へのエネルギーは、自分でもできるし、何よりまず自ら出てこないといけない。じゃないとlead the peopleの前のlead the selfにならない。「当たり前だが」とすぐ枕詞につけたくなるが今回はつけない。再認した。つまり忘れていたので、全然自分の中では当たり前にできていないのだ。そう働きかける方法を、明日から考え実行しようと思う。
▽メタ的な感想
- 読書体験や映画体験は”旅”であるべきだと思った。それは即ち、日常の延長線上にないどこか問題提起の場所に連れて行かれ、そこを”思考”によるもがき、試行錯誤によって意味を転置し直し、日常に戻ってくる、着地する、という作業を通しての日常の非日常化、というプロセス。
- これこそがもともとやりたかった映画会や読書会や朝会の主旨だ。(朝会はやってます)(映画会はたまに)(読書会はほぼやってません)